Daphne Loves Derby
海外
Emo / Guitar Pop / Power Pop
Stu, Kenny, Spencer, David
2002年シアトルにて、ケニー・チョイ(Vo/Gt)を中心に結成されたDAPHNE LOVES DERBY。ステュー・クレイ(Dr)とジェイソン・コール(Ba)とともに活動をスタートした彼らは、そのどこまでも蒼く透明に響き渡るエモーショナルなサウンドと、10代とは思えない強固なバンド・アンサンブルによってキッズたちの支持を集め、音楽試聴サイトPurevolumeにアップしたデモ音源はなんと瞬く間に100万を越えるプレイ回数を記録(2007年1月現在、彼らのMyspaceページでは380万プレイを記録中!)。当時メンバーの平均年齢18歳という驚異的新人の出現に騒然となった音楽業界は、当然の如くメジャー/インディーズを含め数々のレーベルが争奪戦を繰り広げ、現在のホームであるOutlook Musicと契約。そして2005年8月にリリースされたデビュー・アルバム『On The Strength Of All Convinced』は日本だけで新人バンドとしては異例の5,000枚を越えるセールスを記録し、WAKING ASHLAND、COPELAND、DREAM STATE、MAEなどと並びシーンのトップ・バンドの仲間入りを果たしたのだった。
その後、ライヴでサポートを務めていたスペンサー・アボット(Gt)を正式メンバーに迎え、COPELAND、WAKING ASHLAND、SHERWOODなどとのツアー、2006年2月の初来日公演、Bamboozleフェスへの参戦とライヴ活動に明け暮れた彼らは、2006年夏、PANIC! AT THE DISCOやTHRICEを手掛けた名プロデューサー、マット・スクワイヤーの元でスタジオ入り。2ヶ月に及ぶレコーディング期間を経て完成したのは、ケニーのより成熟したソング・ライティングと、EMOの枠に収まることのない幅広いアレンジメント、そして今まで以上に輝きを増した珠玉のメロディーが詰まった最高傑作だ。
レコーディング直後に同年オリジナル・ベーシストのジェイソンが脱退してしまうという悲劇に見舞われつつも、彼らの着実な歩みを止められるものは何もない。EMOシーンのブレイクによって倍増したバンドたちが頭打ち状態で氾濫する中、彼らの目は確実にシーンのその先を見据えているのだ。
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BIO For 1st Album "On The Strength Of All Convinced":-
「自分たちの音楽はできる限り自分たちでバックアップしたい」
きっと誰でもこんな話を一度や二度は目にしたことがあるかもしれない――音楽好きのキッズたちが集まって自宅のガレージでバンドをはじめる。小さなライブハウスでショウをするようになり、地元のちょっとした人気者となる。すると、ある日突然メジャー・レーベルのやり手A&Rスカウトマンに"発掘"され、あれよあれよという間に契約に至りメジャー・デビュー。誰もがあこがれるスターダムにのし上がった彼らはこう言うだろう「別に音楽のスタイルが変わるわけじゃない。ただ俺たちはより多くのリスナーに俺たちのサウンドを届けるために大きなフィールドへ~」云々。
――DAPHNE LOVES DERBYにそんな夢物語な挿話はない。
DAPHNE LOVES DERBYは<インターネット>という今までとはまったく新しい手法で、音楽業界に革命的なカウンター・アタックを仕掛けたバンドなのだ。
2002年シアトル、ヴォーカルのケニーはハイスクールに通い、ベースのジェイソンとドラマーのステューはそれぞれジュニア・ハイスクールに通っていた。ある日ケニーがライヴで歌っているのを目撃したジェイソンはすぐに彼にメールを送り、DAPHNE LOVES DERBYは結成された。
裏庭の物置小屋で曲作りとリハーサルを重ね、現在のサウンドの原型を完成させた彼らは少しずつ地元でライヴも行うようになり、反応も好評だったようだ。と、ここまでは典型的な新人バンドの話と変わらない。
物事が大きく変わり始めたのは、彼らがバンドのデモ音源をいくつかのウェブサイトにアップした頃だ。閉鎖してしまったMP3.comの後継と言えるpurevolume.comや、世界最大のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)myspace.comがそのメインだった。
「ものすごい勢いだったね」ジェイソンは言う、「突如にして俺たちの音源がダウンロード数100万回を記録したんだ。オンライン・チャートや投票では昔からの憧れだったバンドを次々と抜いてしまったんだ。あれはクレイジーだった!」
その後、オンラインでの人気も手伝いバンドはシアトル以外へのツアーも頻繁に行うようになる。
しかし、ダウンロード回数は必ずしもバンドの人気を決定付けるものではないし、バンドにとっての"武器"となりうるものでもない、と反論する人がいるのは確かだろう。ではその人たちはこれをどうやって説明するだろう――
2004年、レコード契約も、ラジオ・プレイも、雑誌広告もまったくないDAPHNE LOVES DERBYは、全米各地でキャパシティー500人クラスのライブハウスをヘッドライナーとしてソールド・アウトさせていたのだ。ちなみに、まだ学生だった彼らは週末を使ってこれらをやらなければいけなかった。
末恐ろしい楽曲センスと、計り知れないインターネットの力。バンドは全国規模の人気を獲得したのだ。
そうなるともちろんレコード会社も黙ってはいない。事実、メジャー・レーベルをはじめ、巨大インディー・レーベル、マネージャー、スカウトマンなど、バンドの獲得に乗り出したあらゆる音楽関係者が彼らのもとを訪れ始める。つまりその中から選び放題だったのだ。
しかし、多くのアプローチを受ける一方で彼らは次第に音楽業界の"陰"も知るようになる。
2005年初頭、あるニュースがネット上を駆け巡り、シーンに衝撃を与えた。それは、DAPHNE LOVES DERBYがそれまで噂されていたすべてのオファーを蹴り、コロラド州デンバーを拠点とした無名の新興インディー・レーベルOutlook Musicと契約を交わした、というものだった。(ちなみにOutlook Musicは、アメフト・チームDenver Broncos所属の現役NFL選手でオールスターにも4度選ばれているトレヴァー・プライス本人が運営するレーベルであるというのも興味深い。)
「バンドにとって何が一番大切なのかってことを考えた結果の選択なんだ。自分たちのペースで、自分たちの意向を最大限に考慮してサポートしてくれるレーベルがOutlook Musicだった。多くのバンドのようにレーベルに頼ってバンド・イメージやハイプを作り出してもらうんじゃなくて、自分たちの音楽はできる限り自分たちでバックアップしたいんだ」とケニーは語る。
バンドのあらすじはよしとして、サウンドについてはどうなのか。デビュー・アルバム『On the Strength of All Convicted』で聴くことができるのは、儚く物憂げな郷愁と、そこに一筋の希望を見出す力強さを音に込めた純粋な"唄"。ケニーとジェイソンの作り出す美しく伸びやかなハーモニー、そしてステューの叩く正確でアップ・ビートなドラミング。ピアノやキーボード、アコースティック・ギターを多用するなどバンドの懐の深さを感じさせつつも、それはどこまでも自然に、どこまでもピュアに響き渡る。とかく陰湿になりすぎるこの手のバンドが多い中、切なさの中にもしっかりと前を向いたポジティブなエナジーを持った楽曲は胸を締め付けてなかなか離さない。
「楽しさだったり悲しみだったり、とにかくどちらか極端になりすぎるバンドが多い気がする」ジェイソンは言う、「俺たちはみんなにすべてを聴いてもらいたい。人生はまるでジェットコースターなんだ。人はそれぞれポジティブなエモーションもネガティブなエモーションも経験するし、それを少しでも知ることによって人生とうまく向かい合っていけるんだと思う。たくさんの人から、DLDの音楽のおかげで立ち直ることができたというメールをもらうんだ。それに勝るうれしい言葉はないね。」
DAPHNE LOVES DERBYの物語はまだ始まったばかりだ。
その後、ライヴでサポートを務めていたスペンサー・アボット(Gt)を正式メンバーに迎え、COPELAND、WAKING ASHLAND、SHERWOODなどとのツアー、2006年2月の初来日公演、Bamboozleフェスへの参戦とライヴ活動に明け暮れた彼らは、2006年夏、PANIC! AT THE DISCOやTHRICEを手掛けた名プロデューサー、マット・スクワイヤーの元でスタジオ入り。2ヶ月に及ぶレコーディング期間を経て完成したのは、ケニーのより成熟したソング・ライティングと、EMOの枠に収まることのない幅広いアレンジメント、そして今まで以上に輝きを増した珠玉のメロディーが詰まった最高傑作だ。
レコーディング直後に同年オリジナル・ベーシストのジェイソンが脱退してしまうという悲劇に見舞われつつも、彼らの着実な歩みを止められるものは何もない。EMOシーンのブレイクによって倍増したバンドたちが頭打ち状態で氾濫する中、彼らの目は確実にシーンのその先を見据えているのだ。
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BIO For 1st Album "On The Strength Of All Convinced":-
「自分たちの音楽はできる限り自分たちでバックアップしたい」
きっと誰でもこんな話を一度や二度は目にしたことがあるかもしれない――音楽好きのキッズたちが集まって自宅のガレージでバンドをはじめる。小さなライブハウスでショウをするようになり、地元のちょっとした人気者となる。すると、ある日突然メジャー・レーベルのやり手A&Rスカウトマンに"発掘"され、あれよあれよという間に契約に至りメジャー・デビュー。誰もがあこがれるスターダムにのし上がった彼らはこう言うだろう「別に音楽のスタイルが変わるわけじゃない。ただ俺たちはより多くのリスナーに俺たちのサウンドを届けるために大きなフィールドへ~」云々。
――DAPHNE LOVES DERBYにそんな夢物語な挿話はない。
DAPHNE LOVES DERBYは<インターネット>という今までとはまったく新しい手法で、音楽業界に革命的なカウンター・アタックを仕掛けたバンドなのだ。
2002年シアトル、ヴォーカルのケニーはハイスクールに通い、ベースのジェイソンとドラマーのステューはそれぞれジュニア・ハイスクールに通っていた。ある日ケニーがライヴで歌っているのを目撃したジェイソンはすぐに彼にメールを送り、DAPHNE LOVES DERBYは結成された。
裏庭の物置小屋で曲作りとリハーサルを重ね、現在のサウンドの原型を完成させた彼らは少しずつ地元でライヴも行うようになり、反応も好評だったようだ。と、ここまでは典型的な新人バンドの話と変わらない。
物事が大きく変わり始めたのは、彼らがバンドのデモ音源をいくつかのウェブサイトにアップした頃だ。閉鎖してしまったMP3.comの後継と言えるpurevolume.comや、世界最大のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)myspace.comがそのメインだった。
「ものすごい勢いだったね」ジェイソンは言う、「突如にして俺たちの音源がダウンロード数100万回を記録したんだ。オンライン・チャートや投票では昔からの憧れだったバンドを次々と抜いてしまったんだ。あれはクレイジーだった!」
その後、オンラインでの人気も手伝いバンドはシアトル以外へのツアーも頻繁に行うようになる。
しかし、ダウンロード回数は必ずしもバンドの人気を決定付けるものではないし、バンドにとっての"武器"となりうるものでもない、と反論する人がいるのは確かだろう。ではその人たちはこれをどうやって説明するだろう――
2004年、レコード契約も、ラジオ・プレイも、雑誌広告もまったくないDAPHNE LOVES DERBYは、全米各地でキャパシティー500人クラスのライブハウスをヘッドライナーとしてソールド・アウトさせていたのだ。ちなみに、まだ学生だった彼らは週末を使ってこれらをやらなければいけなかった。
末恐ろしい楽曲センスと、計り知れないインターネットの力。バンドは全国規模の人気を獲得したのだ。
そうなるともちろんレコード会社も黙ってはいない。事実、メジャー・レーベルをはじめ、巨大インディー・レーベル、マネージャー、スカウトマンなど、バンドの獲得に乗り出したあらゆる音楽関係者が彼らのもとを訪れ始める。つまりその中から選び放題だったのだ。
しかし、多くのアプローチを受ける一方で彼らは次第に音楽業界の"陰"も知るようになる。
2005年初頭、あるニュースがネット上を駆け巡り、シーンに衝撃を与えた。それは、DAPHNE LOVES DERBYがそれまで噂されていたすべてのオファーを蹴り、コロラド州デンバーを拠点とした無名の新興インディー・レーベルOutlook Musicと契約を交わした、というものだった。(ちなみにOutlook Musicは、アメフト・チームDenver Broncos所属の現役NFL選手でオールスターにも4度選ばれているトレヴァー・プライス本人が運営するレーベルであるというのも興味深い。)
「バンドにとって何が一番大切なのかってことを考えた結果の選択なんだ。自分たちのペースで、自分たちの意向を最大限に考慮してサポートしてくれるレーベルがOutlook Musicだった。多くのバンドのようにレーベルに頼ってバンド・イメージやハイプを作り出してもらうんじゃなくて、自分たちの音楽はできる限り自分たちでバックアップしたいんだ」とケニーは語る。
バンドのあらすじはよしとして、サウンドについてはどうなのか。デビュー・アルバム『On the Strength of All Convicted』で聴くことができるのは、儚く物憂げな郷愁と、そこに一筋の希望を見出す力強さを音に込めた純粋な"唄"。ケニーとジェイソンの作り出す美しく伸びやかなハーモニー、そしてステューの叩く正確でアップ・ビートなドラミング。ピアノやキーボード、アコースティック・ギターを多用するなどバンドの懐の深さを感じさせつつも、それはどこまでも自然に、どこまでもピュアに響き渡る。とかく陰湿になりすぎるこの手のバンドが多い中、切なさの中にもしっかりと前を向いたポジティブなエナジーを持った楽曲は胸を締め付けてなかなか離さない。
「楽しさだったり悲しみだったり、とにかくどちらか極端になりすぎるバンドが多い気がする」ジェイソンは言う、「俺たちはみんなにすべてを聴いてもらいたい。人生はまるでジェットコースターなんだ。人はそれぞれポジティブなエモーションもネガティブなエモーションも経験するし、それを少しでも知ることによって人生とうまく向かい合っていけるんだと思う。たくさんの人から、DLDの音楽のおかげで立ち直ることができたというメールをもらうんだ。それに勝るうれしい言葉はないね。」
DAPHNE LOVES DERBYの物語はまだ始まったばかりだ。