Apr20
物騒な世の中
2007年4月20日 ねっくん
「裕福」への復讐だと称して何十人も無差別殺人をしたり、八つ当たりだか鉄砲玉だか知らんが市長が殺害されたり。

日本で決まったことと言えば「最低12歳から少年院へ収容可」ということだけ。

つまり後手に回っているだけということ。

でも、そんなの当たり前なんである。

もっと優先してやって欲しいことを国民が次々と言うわけだから。


本屋にいけば、どこかの会社のミステリー文庫にはほとんど「殺意は身近にある」みたいな帯が巻かれている。

別にいいんだけどね。

TVドラマでは頻繁に殺人事件が起きているわけだし。

これは批判ではないし、当たり前だけど賛同ではない。

文化ですから。



でも思うんですね。

「人を殺してはいけない」ってどこでならったんだろう?

誰がいつ「蚊は叩き殺してもいいよ」って決めたんだろう?

カエルの解剖実験は「カエルを殺した」代償を得るほど有益なものであろうか?(実験用マウスの犠牲は、科学の進歩 と秤にかけた上で「科学の進歩」を優先させた ことに納得しているつもりではある。)


そういった善悪のラインは殊に曖昧なんである。日本では特に。


「牛・豚・鳥 などの食肉になる家畜は殺しても仕方がない」


「~だから食べ残したらダメよ。」ってのは、もう支離滅裂である。

無駄死か否か?普段、そんな思考なんて持ち合わせていないクセにその言い分は当たり前のように口にされる。

これを俗に偽善という。

「母さんにそう言われたから、自分も子供にそう言うのが当たり前」という連鎖であってほしくないわけです。

平和な時代だからこそ、「古い考えを持ち続けていいのか?」という事象について考えるべきである。


また

「殺そうと思うのと、実際に殺すのとは大きな違い」

それはつまり、誰でも「殺そうという考え」を一度は抱いたことがある。という証明。
人間だから仕方がない。感情なんだから。

その「違い」ってやつが「どれくらいの大きさか?」は人によって違うのである。難しい・・・。

しかしながら「生物を殺傷するということ」について深く深く深く深く深~く考えて、色々な考えが生まれても尚、
「何だかんだいっても殺しちゃダメでしょ。」っていう、どこからともなく沸き起こる謎の感覚がある。

それが「不思議な事にそう思わなくなったんだよね」ってならないことを祈るばかりである。

決して先天的なものではない、という意味も込めて、
それでも日本は「世界の中では平和な方」という事実。

そして、日本における「長い平和」は未だ「戦乱に終止符を打った江戸幕府の期間」に及ばない、という事実。

いつか、平和ボケ を理由に平和が終わるのでしょうか?


徒然な日記で恐縮です;;
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