Apr2
春爛漫
2007年4月02日 ねっくん
漢字で書けと言われると「漫」の部首が”サンズイ”であることに悩むだろうなぁ、と思う今日この頃。「爛」の字を覚えると満足しちゃう性格ですからw

まぁしかし「春らんまん」の方がやはり「爛漫」度は高いのである。
などと、、、全くもって俺は『はっぴぃえんど』の奴隷である。
きっとそのうち「夏なんです」を語ることになるだろう。

※「春らんまん」「夏なんです」は曲名

さて、つい先日、近所の坂の桜が咲いているとMyミクさんからメールが届き。今日は元同僚から「花見してんだけど俺運転手だからビール飲めねぇ」などとメールが届く。

そう言えば毎年、花見してたなぁと物思いに耽るのである。
そして彼へのメール返信を忘れる。スマン;;

なんとゆーか桜という華に風情を感じたりする「和の心」って奴が俺は少し足りず、とにかくもう「酒を飲む言い訳」なんである。そして「雰囲気に呑まれる」ってのがまた好きなのでして、大して思ってもいないのに、ワンカップでも飲みながら桜を見上げて「いやぁいいもんですなぁ」と爺臭い事を爺臭い友人に呟く、その行為こそが目的であり快感なのである。
即ち、コンクリートジャングルだかアスファルトサバンナだか、俺が生まれた時代にはもうそんな風だったわけで。
皇居お堀沿いの桜を肴に酒を飲む、と言ったって、舗装された道路の上のベンチに座っているのである。
だから自分で雰囲気を構築せねば「粋」に浸れないのだ。

なんだかドンドンと話が展開転回してしまう感じだけど、

田舎者の俺には江戸っ子の「粋」ってやつがシっくり馴染んでないんだと思う。「備前中後」から上京してきたわけだから仕方が無いのかもしれない。
俺にとって「桜散る趣」は、「自分でその風景を見て風情を感じる」より「教育として学習して”風情あるモノ”と知る」ほうが先だったのである。
まぁ、例えそうだとしても「そんな事を言ってしまう感覚」がもう「粋」とはかけ離れているのかな?と。

さてさて、この話はどう完結するかと言いますと、「江戸っ子」の「江戸っ子たる自信」というのが羨ましいという事なのです。

「いいモノはいい」「うまいモノはうまい」

「つべこべゆーとらんと食ってみなさいよ!」

「お、うまい!うまいね~旦那!」

この展開。よくある江戸っ子的会話。

コレって「マズイ!」という回答が用意されていないのである。

マズイ場合は「ウマイんだろうけどね、あっしはちょいと苦手ですねぇ」ぐらいの”相手を立てる返答”が限界なんである。
そうすると「この味がわからないようじゃ、まだまだ子供だねぇ」なんて会話に進む事を想像するのは容易。

江戸っ子は絶対的に「空気を読み」つつも「意見を曲げない」誇り高き人種なのである。

その点、俺はそこにたどり着けずアベコベな人間。

「キモチよければOK」「カッコよければOK」

そんな事を頻繁に口にするクセ、「頭でっかち」を誇りに思うのである。
正にアベコベな人間。

「なぜ桜はキレイだと誰しもが感じるのか?」という疑問に向かうベクトルを消去してはいけないと思うのである。

その「桜」という植物の万人ウケの良さってのは計り知れず、「さくら」「サクラ」に留まらず、学名である「ソメイヨシノ」という味気無い言葉ですら「儚さ」を含んで聞こえ、曲名としても使用され中々に売れた。これはもう「SAKURA」でも趣を感じ取れるんじゃないか?とさえ思う。

そんな風に思うから、
だから憧れるんである。

「さくらって何でキレイなんでしょうね?」

そう聞かれたら

「キレイだからに決まってるだろ!」

そう答えられる力が欲しいのである。


決して答えてはならない。

「暖かい気候のなか薄いピンクが舞う、ってリラクゼーションだよね」

とは。


ナンだこの日記・・・スミマセン。
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