この前の週末に脱原発デモなるものにちょっと参加してきました。
なんとなく、見ておこう、一回参加しておこうと思って。
せっかく、こういうタイミングで生きて、こうした事態に出くわしているのだから。
こうしたデモの是非とか、脱原発の是非とか、
そういうのは、知りませんが、
ひとつだけ信じていることとして、
現実はどうあれ、
原子力は、必要悪、といわれていたように、
理想的には、今の人間社会、
原発を使わずに、
なおかつ、環境の面で持続性のある
たとえば自然エネルギーとかで、
やっていけるに越したことはないわけです。
それが、今すぐできるかどうか、
どうやって、どれくらいかけて、
そこにたどりつくかは、別として。
理想としては、
その方がいいと思うわけです。
その理想に対して、
近づこうとする人たち、
その理想を主張する人たち、
その理想を守ろうとする人たち、
彼らは、かけがえのないファイターであって、
まさに、Defenders of The Faith
それに対して、非難をする理由は、僕にはありません。
非難や批判をするかどうかは、
主に好みの問題でしょう。
理想というものに対して、突っ走るタイプか、距離を置くタイプか、
熱く語るか、斜に構えるか、
という、個人それぞれの。
僕は、できれば、実際に、体験してみたいタイプです。
そんな思いもあり、僕もちょいと参加してみたわけですが。
http://www.youtube.com/watch?v=cWMl2nTbnTA
↑僕もちょこっと映ってます。ああ、見ないで・・・・
デモ自体は、1200人が参加したらしく、
よくわかりませんが、過去で最大の規模になったそうですが、
でも、僕の率直な感想としては、
たかだか1200人といった規模にとどまっていることが、
むしろ不思議でなりません。
よく知りませんが、聞くところによれば、
ドイツでは、反原発のデモが、もっと何万人、何十万人の規模になっていたとか。
僕の感覚からすれば、これほどの事態になって、そのくらいになるのが、自然だと思うのですが、
これはどうしてなのでしょう。
ここのところ、ずっと不思議に思っていたのです。
今、日本が抱えている問題、危機。
そして重要なターニングポイント。
これほどの、具体的で、今ここにある、大きな危機が、
目の前に起きているにもかかわらず、
その問題に対して、
どう考えるのか、
どう語るのか、
どう対処するのか、
それが、社会や公共の問題ではなく、
むしろなぜだか、
各人の、内心の問題になってしまっている。
なぜだか、公に語ることが、できない、あるいは、難しい。
この不思議な状況を、この数ヶ月、
(また、自分は、バンドの遠征から帰ってきてから特に)
ずっと、不思議な違和感を持って、見てきました。
なんなんだろう、これ、って。
ひとつ、わかってきたこととして、
この国の社会、
つまり、
政治、政府であるとか、
組織、会社であるとか、
そして一人一人の大人たち、
(僕は、しがない貧乏ミュージシャンであるので、まともな大人のうちに入れてもらえないかもしれませんが)
彼らには、起こったことの、
責任も取れなければ、
対処もできないのだと、
そして、多くの人たちは、
その現実を受け止めること、理解することすら、
できないのだと。
僕は、ここで、無責任社会という言葉を使いますが、
今回、東北と、福島で起きたことは、
この、今までの日本の社会の枠組み、
この、無責任社会の枠組みを、
超えたものだったと思うんです。
つまり、その今までの社会の枠組みを超えた事象については、
対処もできなければ、
理解もできない。
そういうことだと思うんですね。
そして、それゆえに、
この事象について、
踏み込んで語ることは、
社会の枠組みを超えたところについて
語ることと不可分なので、
だからこそ、この危機について、
おおっぴらに、踏み込んで語ることが、
社会の中で、難しくなってしまっている、
ということだと思います。
そういった意味で、今回のこの出来事は、
私達のずっと暮らしてきた、
この国の社会が、
いかに無力で、いかに何もできず、
いかに無責任か、
それを思い知る事態だったわけです。
あてにはできない、ということです。
だから、この事に対する、処置は、
各人、それぞれが、
個人的に、判断をし、行動しなければいけない。
各人が、その内心でもって、
物事をとらえ、考え、
あくまで個人的に決めなければいけない。
社会は、一切、対処をしれくれない。
すごく、不思議な状況です。
政府とか、公の機関が、
情報を知らせない、
あるいは正しい情報を知らせない、
現在の状況にあっては、
特にこのインターネット社会においては、
いろんな情報が、流れ、飛び交い、錯綜しています。
安全だ、というもの、危険だ、というもの、
白だ、というもの、黒だ、というもの。
100とおり、1000とおりの情報が、流れています。
その結果、
自分が信じたい情報を、信じることができる、
という状態に、なってきていると思います。
別にまったく問題はない、
と、思えば、
そう信じることができるし、
ものすごく危険だ、
と、思えば、
そう信じることができる。
情報は、どんな種類のものでも、好きなだけ、あふれています。
その結果、
今回、今日本を見舞っている危機と問題に関して、
どう捉えるかは、
まったく各人の内心の問題であり、
100人が100人とも、違う捉え方をしているという状態が起きていると思います。
そこには、人によって、大きな差異があると思います。
そして、事態は、非常に大きくて深刻だからこそ、
大きな差異を持ち、社会の枠組みを超えた、これらの議論を、
公の場で口にするというのは、多くの日本人にとって、難しくなっていると思います。
結果として、社会の中で、公にこのことを語ることが、
知らずしらず、タブー視されていく、という現状があると思います。
だから、およそ、助けは来ません。
その判断をするための情報すら、正しく来ない。
今回の危機は、社会的な、公の判断や助けは基本的に、無く、
それぞれが、個人が、自分の内心の問題として、
考え、対処するしかないのだと思います。
そして、そんなとき、自分の内心にあるものが、
はっきりと形になって表れてきます。
たとえば、その最たるものは、信仰。
僕はといえば、
僕は、すでに被害は、出ていると思っています。
実際に、災害や、破壊や、故郷を追われる羽目に陥った、
東北地方の人たちだけでなく、
弱いものから順番に、被害は出ていると思っています。
(弱いもの、でなく、普通の人たちに、被害が出れば、それは、もうおしまいだということだと思いますが。)
これ、僕がさきほど書いたtweetです。
弱い立場の人たちは、この先いくつ原発が壊れようが、どれだけ放射線が押し寄せようが、死の前日まで普段通りの勤勉な生活を続けるだろう。なぜならそれが彼らの知っている唯一のものだからだ。
中流の立場の人たちは、この無責任社会での今まで通りの生活を続けるためなら、どんな真実からも目をそらし、どんな嘘でも信じるだろう。
そして強い立場にいる人たちは、この無責任社会を維持延命するために、弱い立場の人たちから順番に、黙って人を殺し続けるだろう。
そして、
僕は、このような事故や、危機は、
今回は地震という災害がきっかけでしたが、
遅かれ早かれ、なんらかの形で、
こういった事態は、日本には起きていただろうと
思っています。
そういった何かが起きたときに、
どのような対処ができるか、
ということも含めて、
問題の本質は、何が起ころうと変わらなかっただろうと
思います。
国について語るとき、
理想について語るとき、
愛国心について語るとき、
まず、愛国心の有無について問うよりも先に、
その人が、何を理想とするか、
それを問うべきだと思っています。
僕たちの国、日本について言うなら、
その人にとって、
日本とはどういうものなのか、
その人の考える、
理想の日本とは、どういうものなのか、
その人の考える、
日本人とは、どういうものなのか、
それをまず問うべきだと思っています。
それによって、
社会問題であれ、
政治であれ、
まったく目的地が違ってくるからです。
目的地が違うままで、議論しても、
話がかみ合わないだけで、
その議論には意味がありませんから。
自分の中では、これは語るのも今更なのですが、
もちろん、明らかに、
日本は、過去数十年間、
すばらしく反映した社会となり、
すばらしく豊かな生活を送ってきましたが、
少なくとも、僕自身が思うには、
それは本当のものではなくて、
嘘で塗り固められた社会だった、
そこから脱却すべき、かりそめの世界だった、
そんなふうに感じてきました。
自分が、今のような生き方を選んできたのも、
そういったところに理由がありますが、
そういった、
嘘と、人間性の犠牲の上に成り立った、
無責任社会であったからこそ、
今回の出来事は、起こり、
また、もっと早く起こっていてもおかしくはなかったし、
また、今回起こらなくても、早晩、似たような状況は、起こったであろうと思っています。
バンドの方でも、さりげなく、書いたり、発言したり、していますが、
たとえば、
現代の日本は、
ロック、
民主主義、
ジーザス(信仰)、
資本主義(これは、どちらにしろもう世界的にだめかもしれませんが)
こういったものが、本当には永遠に根付かない国だったと思っています。
だから、本当の治療は、
そうした社会の体質を、変えていくことであり、
新しい価値観の社会を、つくっていくことであると、思っています。
脱原発の是非とか、
政治をどうするか、とか、
そういった個々の問題も、そうですが、
それ以上に、
社会全体の、行き先と、「悔い改め」を。
(すいません、ここは、「悔い改め」(repent)という言葉を、使わせてください。)
それを抜きにして、
今回の危機の、「克服」は、無いと思っています。
あんましこの人のこと知りませんし、
批判もある牧師さんだそうですが、
有名なRick Warrenなる牧師さんの、
tweetを引用して、文章を終えようと思います。
Rick Warren
If you're serious about changing culture, start with music. Its power is unequalled. That's why I mentor musicians
続き。p.s.
その、デモに参加してみたときの率直な感想も含め、
「テンション低いなあ、これだけのことが起きているのに」
という、率直な疑問に対しての、ひとつの回答。
その翌日に、自分とこの教会の礼拝に参加して(日曜日なので)、
そこで与えられたメッセージ。
これまた、軽々しく、話題にできることではありませんが、
解釈はいろいろあれど、
キリスト教世界に生きる人たちって、
今、多かれ少なかれ、これについて話したり、意識したり、
している人、多いと思うんです、きっと。
世界中で起きている、災害、地震、混乱、
そして、東北で起きたことが、
あまりにもそのまんま、
新約聖書のマタイの福音書に書かれている
「世の終わり」の出来事にそっくりなこと。
つまり、
「おおっ、キリストの再臨が、近いんじゃないか」
(一般的な言葉で言えば、世界の終わりが、近いんじゃないか、ということ)
解釈の違いとか、教会によって、牧師さんによって、
言うことは、それぞれ違うとは思うんですが、
こういうふうに言われていること、多かれ少なかれ、
キリスト教の世界では、あると思います。
そう思うとき、
これって、何よりもテンション高いな、って。
キリストの再臨、というのは、
あるいは世界の終わりかもしれませんが、
クリスチャンにとっては、
どちらかというと、喜ばしいことなんじゃないかと
思われます。
ただ、言われているのは、
「準備しておきなさい」
ということ。
これって、すごい、テンション高いな、って。
たぶん、今、日本で、どんな人たちよりも、
いちばんテンション高く、生きているのは、
ひょっとしてクリスチャンの人たちなんじゃないか、
とも思います。
もちろん、世界なんて終わらない可能性が高いし、
きっと何事もなく歴史は進んでいくだろうし、
(個人的には、現実の歴史というのは、どんな預言よりも、斜め上を、すべての預言と人間の思惑を総合した上で、それを超えて続いていくものだろうと思っている。)
実現的終末論、だっけか(違うかも)
書かれている終末っていうのは、既に来たのであり、
いつでも準備していなさいよ、っていう心構えこそが、
大事なんだ、とか、
そういうような解釈もあるらしいし。
でも、実感として、思った。
世界の終わりを意識し、
それを、悲観するのではなく、
前向きに準備すること。
いつでも、そのときのために、
準備しながら、
1日1日を大切に生きていくこと。
これ以上に、
テンションの高い生き方は、
無いんじゃないか、
と、僕は、なんとなく、納得したのでした。
おしまい。
なんとなく、見ておこう、一回参加しておこうと思って。
せっかく、こういうタイミングで生きて、こうした事態に出くわしているのだから。
こうしたデモの是非とか、脱原発の是非とか、
そういうのは、知りませんが、
ひとつだけ信じていることとして、
現実はどうあれ、
原子力は、必要悪、といわれていたように、
理想的には、今の人間社会、
原発を使わずに、
なおかつ、環境の面で持続性のある
たとえば自然エネルギーとかで、
やっていけるに越したことはないわけです。
それが、今すぐできるかどうか、
どうやって、どれくらいかけて、
そこにたどりつくかは、別として。
理想としては、
その方がいいと思うわけです。
その理想に対して、
近づこうとする人たち、
その理想を主張する人たち、
その理想を守ろうとする人たち、
彼らは、かけがえのないファイターであって、
まさに、Defenders of The Faith
それに対して、非難をする理由は、僕にはありません。
非難や批判をするかどうかは、
主に好みの問題でしょう。
理想というものに対して、突っ走るタイプか、距離を置くタイプか、
熱く語るか、斜に構えるか、
という、個人それぞれの。
僕は、できれば、実際に、体験してみたいタイプです。
そんな思いもあり、僕もちょいと参加してみたわけですが。
http://www.youtube.com/watch?v=cWMl2nTbnTA
↑僕もちょこっと映ってます。ああ、見ないで・・・・
デモ自体は、1200人が参加したらしく、
よくわかりませんが、過去で最大の規模になったそうですが、
でも、僕の率直な感想としては、
たかだか1200人といった規模にとどまっていることが、
むしろ不思議でなりません。
よく知りませんが、聞くところによれば、
ドイツでは、反原発のデモが、もっと何万人、何十万人の規模になっていたとか。
僕の感覚からすれば、これほどの事態になって、そのくらいになるのが、自然だと思うのですが、
これはどうしてなのでしょう。
ここのところ、ずっと不思議に思っていたのです。
今、日本が抱えている問題、危機。
そして重要なターニングポイント。
これほどの、具体的で、今ここにある、大きな危機が、
目の前に起きているにもかかわらず、
その問題に対して、
どう考えるのか、
どう語るのか、
どう対処するのか、
それが、社会や公共の問題ではなく、
むしろなぜだか、
各人の、内心の問題になってしまっている。
なぜだか、公に語ることが、できない、あるいは、難しい。
この不思議な状況を、この数ヶ月、
(また、自分は、バンドの遠征から帰ってきてから特に)
ずっと、不思議な違和感を持って、見てきました。
なんなんだろう、これ、って。
ひとつ、わかってきたこととして、
この国の社会、
つまり、
政治、政府であるとか、
組織、会社であるとか、
そして一人一人の大人たち、
(僕は、しがない貧乏ミュージシャンであるので、まともな大人のうちに入れてもらえないかもしれませんが)
彼らには、起こったことの、
責任も取れなければ、
対処もできないのだと、
そして、多くの人たちは、
その現実を受け止めること、理解することすら、
できないのだと。
僕は、ここで、無責任社会という言葉を使いますが、
今回、東北と、福島で起きたことは、
この、今までの日本の社会の枠組み、
この、無責任社会の枠組みを、
超えたものだったと思うんです。
つまり、その今までの社会の枠組みを超えた事象については、
対処もできなければ、
理解もできない。
そういうことだと思うんですね。
そして、それゆえに、
この事象について、
踏み込んで語ることは、
社会の枠組みを超えたところについて
語ることと不可分なので、
だからこそ、この危機について、
おおっぴらに、踏み込んで語ることが、
社会の中で、難しくなってしまっている、
ということだと思います。
そういった意味で、今回のこの出来事は、
私達のずっと暮らしてきた、
この国の社会が、
いかに無力で、いかに何もできず、
いかに無責任か、
それを思い知る事態だったわけです。
あてにはできない、ということです。
だから、この事に対する、処置は、
各人、それぞれが、
個人的に、判断をし、行動しなければいけない。
各人が、その内心でもって、
物事をとらえ、考え、
あくまで個人的に決めなければいけない。
社会は、一切、対処をしれくれない。
すごく、不思議な状況です。
政府とか、公の機関が、
情報を知らせない、
あるいは正しい情報を知らせない、
現在の状況にあっては、
特にこのインターネット社会においては、
いろんな情報が、流れ、飛び交い、錯綜しています。
安全だ、というもの、危険だ、というもの、
白だ、というもの、黒だ、というもの。
100とおり、1000とおりの情報が、流れています。
その結果、
自分が信じたい情報を、信じることができる、
という状態に、なってきていると思います。
別にまったく問題はない、
と、思えば、
そう信じることができるし、
ものすごく危険だ、
と、思えば、
そう信じることができる。
情報は、どんな種類のものでも、好きなだけ、あふれています。
その結果、
今回、今日本を見舞っている危機と問題に関して、
どう捉えるかは、
まったく各人の内心の問題であり、
100人が100人とも、違う捉え方をしているという状態が起きていると思います。
そこには、人によって、大きな差異があると思います。
そして、事態は、非常に大きくて深刻だからこそ、
大きな差異を持ち、社会の枠組みを超えた、これらの議論を、
公の場で口にするというのは、多くの日本人にとって、難しくなっていると思います。
結果として、社会の中で、公にこのことを語ることが、
知らずしらず、タブー視されていく、という現状があると思います。
だから、およそ、助けは来ません。
その判断をするための情報すら、正しく来ない。
今回の危機は、社会的な、公の判断や助けは基本的に、無く、
それぞれが、個人が、自分の内心の問題として、
考え、対処するしかないのだと思います。
そして、そんなとき、自分の内心にあるものが、
はっきりと形になって表れてきます。
たとえば、その最たるものは、信仰。
僕はといえば、
僕は、すでに被害は、出ていると思っています。
実際に、災害や、破壊や、故郷を追われる羽目に陥った、
東北地方の人たちだけでなく、
弱いものから順番に、被害は出ていると思っています。
(弱いもの、でなく、普通の人たちに、被害が出れば、それは、もうおしまいだということだと思いますが。)
これ、僕がさきほど書いたtweetです。
弱い立場の人たちは、この先いくつ原発が壊れようが、どれだけ放射線が押し寄せようが、死の前日まで普段通りの勤勉な生活を続けるだろう。なぜならそれが彼らの知っている唯一のものだからだ。
中流の立場の人たちは、この無責任社会での今まで通りの生活を続けるためなら、どんな真実からも目をそらし、どんな嘘でも信じるだろう。
そして強い立場にいる人たちは、この無責任社会を維持延命するために、弱い立場の人たちから順番に、黙って人を殺し続けるだろう。
そして、
僕は、このような事故や、危機は、
今回は地震という災害がきっかけでしたが、
遅かれ早かれ、なんらかの形で、
こういった事態は、日本には起きていただろうと
思っています。
そういった何かが起きたときに、
どのような対処ができるか、
ということも含めて、
問題の本質は、何が起ころうと変わらなかっただろうと
思います。
国について語るとき、
理想について語るとき、
愛国心について語るとき、
まず、愛国心の有無について問うよりも先に、
その人が、何を理想とするか、
それを問うべきだと思っています。
僕たちの国、日本について言うなら、
その人にとって、
日本とはどういうものなのか、
その人の考える、
理想の日本とは、どういうものなのか、
その人の考える、
日本人とは、どういうものなのか、
それをまず問うべきだと思っています。
それによって、
社会問題であれ、
政治であれ、
まったく目的地が違ってくるからです。
目的地が違うままで、議論しても、
話がかみ合わないだけで、
その議論には意味がありませんから。
自分の中では、これは語るのも今更なのですが、
もちろん、明らかに、
日本は、過去数十年間、
すばらしく反映した社会となり、
すばらしく豊かな生活を送ってきましたが、
少なくとも、僕自身が思うには、
それは本当のものではなくて、
嘘で塗り固められた社会だった、
そこから脱却すべき、かりそめの世界だった、
そんなふうに感じてきました。
自分が、今のような生き方を選んできたのも、
そういったところに理由がありますが、
そういった、
嘘と、人間性の犠牲の上に成り立った、
無責任社会であったからこそ、
今回の出来事は、起こり、
また、もっと早く起こっていてもおかしくはなかったし、
また、今回起こらなくても、早晩、似たような状況は、起こったであろうと思っています。
バンドの方でも、さりげなく、書いたり、発言したり、していますが、
たとえば、
現代の日本は、
ロック、
民主主義、
ジーザス(信仰)、
資本主義(これは、どちらにしろもう世界的にだめかもしれませんが)
こういったものが、本当には永遠に根付かない国だったと思っています。
だから、本当の治療は、
そうした社会の体質を、変えていくことであり、
新しい価値観の社会を、つくっていくことであると、思っています。
脱原発の是非とか、
政治をどうするか、とか、
そういった個々の問題も、そうですが、
それ以上に、
社会全体の、行き先と、「悔い改め」を。
(すいません、ここは、「悔い改め」(repent)という言葉を、使わせてください。)
それを抜きにして、
今回の危機の、「克服」は、無いと思っています。
あんましこの人のこと知りませんし、
批判もある牧師さんだそうですが、
有名なRick Warrenなる牧師さんの、
tweetを引用して、文章を終えようと思います。
Rick Warren
If you're serious about changing culture, start with music. Its power is unequalled. That's why I mentor musicians
続き。p.s.
その、デモに参加してみたときの率直な感想も含め、
「テンション低いなあ、これだけのことが起きているのに」
という、率直な疑問に対しての、ひとつの回答。
その翌日に、自分とこの教会の礼拝に参加して(日曜日なので)、
そこで与えられたメッセージ。
これまた、軽々しく、話題にできることではありませんが、
解釈はいろいろあれど、
キリスト教世界に生きる人たちって、
今、多かれ少なかれ、これについて話したり、意識したり、
している人、多いと思うんです、きっと。
世界中で起きている、災害、地震、混乱、
そして、東北で起きたことが、
あまりにもそのまんま、
新約聖書のマタイの福音書に書かれている
「世の終わり」の出来事にそっくりなこと。
つまり、
「おおっ、キリストの再臨が、近いんじゃないか」
(一般的な言葉で言えば、世界の終わりが、近いんじゃないか、ということ)
解釈の違いとか、教会によって、牧師さんによって、
言うことは、それぞれ違うとは思うんですが、
こういうふうに言われていること、多かれ少なかれ、
キリスト教の世界では、あると思います。
そう思うとき、
これって、何よりもテンション高いな、って。
キリストの再臨、というのは、
あるいは世界の終わりかもしれませんが、
クリスチャンにとっては、
どちらかというと、喜ばしいことなんじゃないかと
思われます。
ただ、言われているのは、
「準備しておきなさい」
ということ。
これって、すごい、テンション高いな、って。
たぶん、今、日本で、どんな人たちよりも、
いちばんテンション高く、生きているのは、
ひょっとしてクリスチャンの人たちなんじゃないか、
とも思います。
もちろん、世界なんて終わらない可能性が高いし、
きっと何事もなく歴史は進んでいくだろうし、
(個人的には、現実の歴史というのは、どんな預言よりも、斜め上を、すべての預言と人間の思惑を総合した上で、それを超えて続いていくものだろうと思っている。)
実現的終末論、だっけか(違うかも)
書かれている終末っていうのは、既に来たのであり、
いつでも準備していなさいよ、っていう心構えこそが、
大事なんだ、とか、
そういうような解釈もあるらしいし。
でも、実感として、思った。
世界の終わりを意識し、
それを、悲観するのではなく、
前向きに準備すること。
いつでも、そのときのために、
準備しながら、
1日1日を大切に生きていくこと。
これ以上に、
テンションの高い生き方は、
無いんじゃないか、
と、僕は、なんとなく、納得したのでした。
おしまい。
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